Journal

ナレオな話

1990年代前半のある日、東京は恵比寿のハワイアンカフェでSony Musicの洋楽ディレクター、C君とビールなんぞを飲んでいた。
Hawaii_beer.jpg

「ハワイアンって言うても、あ〜ヤンなっちゃった的だったり、マヒナスターズ的ぢゃ無いのって最近あるよね。」
「そうそう!ちょっとウェスト・コーストっぽいというか、ロック寄りなね。」

まだ、メレだの、オリだの、ハパ・ハオレだの、ハワイアン・ルネッサンスだのの知識もほぼ無いまま、
一(いち)、アメリカンロック好きな男同士の会話として、そんなユルイ会話が弾んでいた。

「来月、ハワイ行くし、なんかそれっぽいの幾つか見繕ってCD買ってくるわ!」
「今風なセシカポとか、カラパナみたいなのね」
「たしか、ウィルソン・フィリップスみたいなんもいたと思うし、、、」

大阪ミナミが偽サーファー、丘サーファーたちに占拠された1970年中頃、間違いなくマストアイテムだったカセット・テープには、ジャクソン・ブラウンやCSN&Yなんかと並んで、セシリオ&カポノ、カラパナのハワイアン・コンテンポラリー2トップが必ず選曲されていた。

その後、後続のハワイアン・アーティストは出現しないまま、
また、ハワイの音楽に対する日本人のステレオタイプなイメージは、バッキー白片的なものへと揺り戻されていた。

アメリカが、ハワイを太平洋上の軍事的、観光的な拠点として捉え、
エルビスを始めとする白人たちが、グラススカートにココナッツ・ブラなオネーちゃんの踊りにエキゾチズムを感じるというあの構図。
そして、そのバックに必ず流れる、ウクレレとスチールギターの演奏をバックに、ファルセットで歌う的な。
それが、いわゆる「バッキー白片」的なという、ハパ・ハオレ(=半分白人)と呼ばれるジャンルだった。

難しく言うと、白人たちに土地のみならず、文化まで占拠されそうになったハワイ人たちが、
アイデンティティーを取り戻そうと、本来のハワイ文化に着目して、ほんとうのフラや、ほんとうのハワイアン・ミュージックを復興させた。いわゆるハワイアンルネッサンスという運動だ。
ギャビー・パヒヌイを筆頭とする、スラックキーの台頭は、そんな象徴だった。
その後、ハワイアンとしてのアイデンティティーを大切にしながらも、アメリカ本土でのロックムーブメントに乗っかったのが、先のセシカポとか、カラパナ。

その後、90年台に入って、テレサ・ブライト、ハワイアン・スタイル・バンド、イズ、
更にはケアリィ・レイシェルなんかが新世代として登場してくる。

僕らは、その時明確にこの流れを知っていたわけではなかったが、何となく匂いを嗅ぎ取っていたのは事実だった。
でも、この時点ではテレサ・ブライトぐらいしか認識していなかったのだと思う。

数日後、ハワイ島のHiloに到着し、チェックインを済ませた僕らは、待ちきれずビーチへと繰り出した。
Naleo_beach.jpeg
(多分、このビーチなんだよなぁ〜)

今となっては、名前も思い出せないHiloのローカルなビーチ。
その日は週末で、ツーリストと言うよりはロコの家族連れが多く、
のんびりとBBQやったり、子供たちとフットボールの練習などをしていた。

僕たちは、そんなロコの家族のちょっと横にビーチタオルを敷かせてもらって、
日光浴というか、ぼーっと横たわっていた。寝るでもなく、起きるでもなく、微睡むという言葉が適当なのかもしれない。
先日のC君との会話は、この時、全く気にもしていなかったのだが、
この隣の家族の持ち込んだラジカセから流れてくる曲が、耳に心地よく届いてきた。
ハーモニー、メロディー、ちょっとフージョンぽいアレンジも、なかなかのものだった。

先ほどからの、この曲の流れはラジオではなく、同一のアーティストのアルバムであることは明白だった。

意を決して、まだそんなに喋れない英語で"Excuse me〜、Who's this song?"ぐらいの質問をぶつけてみた。
"Oh, this is Nalexxxxxxxxxx."「えっ!?ナレしか聞き取れませんがな〜!!」
で、鉛筆と紙を持ち出し、書いてもらった名前が


再結成後、の2枚目になる(その時は、勿論それも知らない)"Flying with Angels"を出した直後(ということは95年の夏だったんだな!?)で、CD屋のラックには前作と2枚しか入ってなくて、新人さんだと思っていた。

そして、その買ったCDを聞いてみると、まさに僕が"ハワイのウィルソン・フィリップス"と名付けていた人たちのサウンドだった。

他にもCDを買ってみたが、Na Leo以上にしっくり来るアーティストには出会えず、
帰国後、そのCDを、C君に聞かせてみると、彼的にも「BINGO!」

早速、日本での権利関係もクリアでき、見事、トントン拍子にSony Recordsより日本デビューとなる。

Naleo_IB.jpg

なんと、タイミングが良かったのか、デビュー作の日本向けベストアルバムは10万枚以上を売上げ、
この後、Sony Recordsはハワイのアーティストたちのあこがれのレーベルとなるのだった。

そして、この件で何もビジネス的に発生していない僕は、ご褒美として、2度ほどハワイへご招待される事となった。

この後に、僕はハワイの音楽に興味を持って、色々と勉強をはじめるのだった。

ハワイに住むという事2

  |  12.06.26
観光目的の入国で許されるのは最長90日までの滞在。
勿論、ヴィザは必要ないし、現在の様にESTAも必要なかった。

強引に、ノーヴィザで入国できたホノルル。
持ち込んだ生活用品は、夫婦で各2個のスーツケースにとどめた。
滞在予定は正直に「89日」と申告し、長期滞在の理由は「20年間働いてきた会社からのご褒美」とした。
意外と簡単に入国できた。

2001年12月16日、半分後ろめたい気持ちもありつつも、まずは、めでたく「ホノルルの住人」となった。

学校が始まるのは、年明け早々。
それまでは、ダウンタウンの「ホノルル・シティー・ライツ」を始めとする、クリスマスムード満々のアメリカン・テイストに乗せられて、浮かれて過ごした。
Snowman.jpg
とにかく、街中がキラキラと輝いていた。

このクリスマスムードに少しでも追いつこうと、日本の住宅事情では買うことをためらったかもしれない大きめのクルスマスツリーをKマートで購入してみた。

大晦日には、ダウンタウンを一望できる我が家の窓からは、雲海かと思うほどの爆竹の煙に街全体が覆われる様子や、アロハタワーで打ち上げられるカウントダウンの花火に見とれながら年を越し、お正月には日系の友人宅に誘っていただき、ハワイ的和風なおせちなんかをつまみながら、これまでの旅行では味わえなかったハワイを体験できていることに感動していた。

浮かれている内に、あっという間に2週間近い時間が過ぎ去り、年明け早々、語学学校の入学式の日がやってきた。
UHのマノア・キャンパス内にあるN.I.C.E.と言う語学プログラムに通うことになっていた。
こちらのヴィザ事情は学校のオフィスに説明していたので、週19時間以下の授業数を条件に入学を許された。
10 WEEKSのプログラムに申し込んでいたので、今回の入国方法では最後まで授業を受けられず、いわゆる「卒業」は出来ないのだが、とにかくいい年をした「学生」になることが出来た。

入学式当日、会場の(たしか)Kuykandall Hallの入口付近で所在なげにオープンを待つ若い人達の中に、二回りほど年齢の離れた40絡みの僕がいた。「絶対に自分は学校内では最年長の新入生」だと覚悟をしていたのだが、フタを開けると、同世代もパラパラいたし、もう一回り上の人もリタイヤ後に入学した人もいたりした。

さて、入学式会場への入場時となり、順次入場してゆく中、何人かの若いアジア系女性がスタッフと思われる白人にジョークを言いながら入場してきたり、そのスタッフが登壇するときに野次ったりなんかしていて、「君等、ここまでしゃべれるんだったら、N.I.C.E.に通う必要ないやん?」なんて思って萎縮する自分もいた。
でも、実は慣れの問題で、この3ヶ月後には、次のセメスターの入学式で同じような行動をとっている自分がいたのだが。

入学式のあとには、適性検査的なものが実施された。
リスニング、グラマー、そして個別のインタビューで会話のスキルを試されるオーラル・プロダクションだ。
802でカマサミ・コングと仕事をしたり、外国人アーティストのインタビューに接することも多かったせいか、前から弱かったグラマー以外は、HIGH INTERMEDIATE(上から2番目)にカテゴライズされてしまい、後々、度肝を抜かれるような単語が続出する授業に参加させられることとなる。
まぁ、後になってみると、その厳しさのお陰で上達した面も確かにあると思うのだが、、、

UH_.jpg
よく休憩時間に和んでいた中庭- Kraus Hall

「学校内母国語禁止」「先生、生徒同士もファーストネームで呼び合う事」など、幾つかの決め事があった。
授業の進め方、キャンパス内の雰囲気、カフェのメニュー、、、すべてがアメリカで、ハワイだった。
授業以外でも、時には誰かのコンドに集合して、先生を交えてBBQをしたり、ビーチにピクニックに行く事も珍しくなかった。

クリーブランド育ちのクリス、アメリカ至上主義のマイケル、間違いなくヒッピー上がりのマリリン、クールでスマートなシャイラ、イギリス訛りの抜け切れない「武士」クインティン、最後の最後まで日本語がペラペラであることを悟らせなかったビビアン、、、
そんな個性的な先生たち

10年間、OLとして働いた自分へのご褒美で3ヶ月だけと決めて来ている子
語学学校に居られるだけいて、その間に現地の男を見つけ、結婚して永住できるよう画策する子
将来的にメインランドの大学へ行くため、クッションとしてハワイで英語を勉強中の金持ちの香港人の子供
会社内の昇給テストに合格し、会社からの資金サポートを受けてまじめにTOEIC800点に狙いを定めている子

色々いたけど、それまでの人生で出会うことの出来なかった年齢や育ちの人たちと出会えた。

そして、楽しいホノルルぐらしの10 WEEKSはあっという間に過ぎていった。

ハワイに住むという事1

  |  12.05.17
僕はラッキーな事に、ハワイにほぼ4年間住むことが出来た。2001年の12月から、2005年の12月までの約4年間だ。

時期的なことも含め、かなりレアで、ちょっと綱渡りな経験なので、思い出しながら書き留めておこう。

2001年9月、いつものようにマウイの定宿となっていたコンド、Palms at Waileaに滞在していた。
Palms.jpg

ここは、結構広い作りのコンドミニアムで、リーズナブルな価格で別荘感覚で使用できるので、4ヶ月に一度、ここに一週間ほどボケーッと過ごしていたのだ。(今でも、1泊2万円弱で宿泊可能のよう)

ある朝起きて、TVをつけると何か様子が違う!そう。その日とはまぎれもなく9月11日。

繰り返し旅客機がWTCに突っ込む、あの映像が繰り返し流されていた。
阪神大震災の時もそうだけど、あまりにも非日常の映像とか見せられると、まるで映画のようにしか感じられなくなる。

このマウイでの経験とその後のワイキキの様子はまた別の機会に書くとして、、、

この数日後、色々あったにせよ、予定通りの行程で帰国できた自分は、ビザ獲得用に用意していた様々な書類や「レター」と呼ばれる推薦文などの一式をまとめて大阪の領事館へ送付したのだが、(今となっては当然のことながら)無期限のクローズ状態。最高レベルでの危機管理状態なので、全く再開の目処もない厳戒態勢。
その為、書類審査すら行なっておらず、数日後送った書類はまんま手元に返ってきた。

一ヶ月ぐらい経ったら、窓口業務も再開するでしょう・・・なぁ〜んて、甘い考えでいたら大間違い。
なにせ、戦争準備に入っている国が、そうやすやすとセキュリティー・レベルを下げるわけもない。

本当にハワイという外国に移り住んで、日常生活できるものなのか?そもそも仕事はあるのか?
そんなことを、まずは、1年間学生として、リサーチしたりするつもりだった。

しかし、例え語学学校であったにせよ、I-20という学校側の受入許可証が必要で、その許可証があって初めてF-1という学生ビザが発給される。
従って、I-20を取得していても、その先が進まなければ、学生ビザは手に入らない。

僕のすべての運命は、アメリカ合衆国の国防省に握られた感じにさえなってきた。

11月には住む家を決めに、再度ホノルルに渡ることもほぼ決まっていたし、翌年1月から始まる語学学校の入学手続きもほぼ完了していた。
しかし、ビザはない、、、

大阪での仕事も、一応一区切りをつけて、最低でも1年間、ぼくが居なくても進む感じにはセットアップしていた。
しかし、ビザはない、、、

学生ビザが手に入らない以上、観光ビザでしか最長90日までの滞在しかできないし、学校に通ったところで、週20時間以下の授業しか受けられない。

日々、アメリカ領事館のサイトをチェックしつつも、何も動きがないまま11月が迫ってきた。
家すら決まらなければ、その後のハワイ暮らしさえもが叶わない気がしてきて、予定通り、11月には住む家を探しに出かけた。

紹介された日本人の不動産屋に「ワイキキには住みたくない」と言うと、「奥さんはノイローゼになるよ!」って脅された。
それでも、一晩中、しかも毎日、お祭り騒ぎに終始するワイキキには住みたくなかった。
地元新聞のクラシファイドに掲載された物件を何件か見、友人のアドバイスで良さ気なコンドの掲示板を直接見て歩いた。

すると、程なくダウンタウンの山手にある、静かめなコンドに2ベッドルーム貸しますの張り紙が!!
すぐに、そこに書かれた電話番号に電話をすると、日系人の大家さんがやってきてくれることになった。

大きめのリビングと2つのベッドルーム、そして2つのバスルーム。パーキングロットはベッドルーム数に比例するので、2台分あった。
Brookside.jpg
更に、1Fには共同とはいえプールとジャクージ。
そして、BBQコートと一度も使うことのなかったジムまであった。
日本では考えられない設備だったが、値段がとてもリーズナブルだったので、その部屋をほぼ即決で決めた。
55 S.Judd St. Honolulu HI. 96817 Nuuanu Brookside

一つ目の山は、なんとかクリアした気がした。

Hawaiiとのこと1

  |  12.04.06

ハワイなんて、アップダウン・クイズにでも優勝しないといけないと思っていた。
そんな僕も大人になり、$1=360円だったレートも、円がどんどん高くなっていった。

そんな80年代中頃、ついにその機会は訪れた。

前半は、完全なプライベートで、すぐに旅行代理店勤務の元同級生が合流して、オアフ島一周のドライブにも連れて行ってくれたし、後半は、当時の仕事で関わっていたCMのチームが乗りこんできて、僕はと言えば、日中は「立会い」と言う名目でロケの周辺をうろつき、夜になると、世界一の広告代理店様とスポンサー様のお金で美味しいご飯とお酒をいただいた。

Alamoana_CF.jpg
「立ち会い」の風景 右のほうでハダカで立ちあうの図

こんな恵まれたハワイ初体験にもかかわらず、この時のハワイの、と言うか、ワイキキの印象は最悪だった。

「ここは熱海か!?」

海辺に林立するホテル群。馴れ馴れしく日本語で話しかけてくる怪しい土産物屋。
そこに並べられた中国製のチープな商品、、、そんな事が僕を失望させた。
失望というより嫌悪か、、、?

Alamoana.jpg
当時のアラモアナ・ビーチ、、、人少なっ!

まとまった休みもなかなか取れない当時の仕事もあり、それから、5年近い時が経った。

仕事も代わり、住まいを大阪に移し、自分の仕事ペースを自分でコントロールできる状況にもなった。

そんな時、普段は週休1日で働き、その分3ヶ月に一度の割合で10日程度のまとまった休みをとる方法を思いついた。

「折角なので、海外旅行をしよう!」と思い立った。

自分の中でヨーロッパは無かった。
NY?LA?SF?

少し前に、GONTITIさんの1時間特番企画を上手くでっち上げて、3泊5日ではあるが、「出張」でオアフに来たことを思い出した。
大韓航空利用、ソウルトランジットではあるが、込み込みで6万円だかのツアーで来た。

テレコ(と言うかDATレコーダーだな)を担いで、早朝にカイマナビーチあたりからロケを開始。
お二人が閃いた場所で、閃いた曲を演奏してもらう。で、バックには波の音や、小鳥のさえずりが、、、'

何ヶ所かで録音をしつつ、チーフマネージャーでハワイ通のショータくんの運転で、オアフ島を半周。

ロケのラストは、サンセット・ビーチでの録音。
ノースショアの波は、当時の僕達の想像をはるかに超えた"怒涛"の様な波で、
音的にはいささかハードすぎたが、驚くほど美しい星空にも出会えた。

ものすごく気持ちのいい音楽番組ができた。
Gontiti.jpg
サンセットビーチで「おつかれさまでした!」の1枚 後ろは月と金星?

多分、この旅が、ぼくのハワイ嫌いを完治してくれていたのだと思う。

僕は、オフをハワイで過ごす事にした。

<つづく〜>

Hawaiiのことのこと

  |  12.03.17
公私ともに、かれこれ50回ちかく行き来し、まる4年間住んだHawaii。

もう完全に「故郷」です。

人、気候、文化、食べ物、、、何一つ嫌いになる要素が見つかりません。

趣味が高じて、Hawaiiネタでいろいろとお仕事をさせてもらったり、、、

そんな、Hawaiiとの思い出なども、思いついたら書いてゆきます。

書けば書くほど、恋しくなるんだろうけどね。

そんな気分のBGは、これですかね?

Naleo.jpg 
I Miss You My Hawaii/ Na Leo Pilimehana

1